私の使命 それは、日本のお寺を守ること

「英語で紙芝居」のみっちゃん先生からメッセージをいただきました

 

日本は、私を本当に魅了します。若いころには、それが何であるのか、うまく説明することができませんでした。しかし、いま、私は3つのキーワードで要約することができます。それは、「歴史、刀、お寺」です。私は大きくなって、世界史を学びました(私は歴史の教師です)。いつも遠くの出来事のように感じていました。世界史には、私をつなぎとめるものはありませんでした。しかし、私が日本の歴史のある個所を読み、学んでいたとき、あたかもその時代の自分を、蘇らせるような気持になりました。日本は、私の母国フィリピンとは似ていません。フィリピンはスペインの植民地であり、日本とは随分と異なります。しかし、何の違和感もなく、自然に、日本を受け入れることができる要素がありました。それは、戦国時代でした。この時代の戦いは、名誉、栄光、征服、気概の戦いでした。これは、おそらく、日本文明がヨーロッパ文明と、明らかに大きく異なる点です。私が記憶している限りにおいて、ヨーロッパ文明におけるほとんどの戦いは、隣国を征服することを意味しています。国民の犠牲の上に、君主制を確立し、しばしば国王自らの欲望を満たすものとして描かれています。

 

日本文明、とくに戦国時代の場合、日本を統一する織田信長の野望を思い出します。確かに、人は信長には、国を支配する貪欲な野望があったというかもしれません。しかし、信長の目的は、戦いが続き、混乱した国を統一することでもありました。国民のために、国家統一の意識が、信長の個人的野心になったといえます。第二のキーワードは、刀です。奇妙にみえるかもしれませんが、私は刀のつくり方が大好きです。そこにはサムライの生き方があります。これほど、サムライに惹かれるのは、私の母から、「あなたの前世は日本人じゃなかったの」と、よくからかわれたことと関係があるかもしれません。そのことについて、若いころは、このことをあまり気にしませんでしたが、私が日本に住むようになってから、この国について、いつも畏敬の念があり、また、懐かしさを感じるのは、母が言っていたことなのかもしれません。そうしたこともあり、私は大学の居合道部に参加しました。そこで、私は私が愛する刀について、より多くのことを実践し、学ぶことができました。私が自分の刀を手に入れたとき、武士がそうであったように、その刀が私の一部になることを知っていました。そのため刀の名前をつけるときには、非常に神経を使いました。三番目のキーワードは、お寺です。私は日本に来てから、お寺がそれぞれ全く異なることを知りました。どういうことかといいますと、私の国には何百の教会、それも300年ほど昔の教会がたくさんあります。しかし、その教会が、私の心に語りかけてくることはありませんでした。これに対して、私が最初に、日本のあるお寺を尋ねたとき、そのお寺が、即座に私に話しかけてくることを感じとることができました。調和と平和の感覚がありました。大勢の人々や群衆の中でさえも。この感覚を言葉で言い表すことは、とても難しいのですが。日本におけるすべてのお寺は、それぞれアイデンティティとユニークさを持っています。私は次世代のために、何とかしてそのアイデンティティとユニークさを守りたいのです。そして、お寺がただ信仰の名や場所というだけでなく、もっと多くの意味を有することを家族や地域社会の人々に理解してもらうために、守りたいのです。また、神道と仏教が共存しているお寺があることには驚きました。教会においては、このような二元的な信仰はまずありません。
私は日本の文化や歴史について、もっともっと学びたいのです。お寺の意義を理解するうえで、文化と歴史は同じように重要なのです。私は日本に来るにあたり、建築の特異性や歴史の重要性について、多くを学べるだろうと思っていました。また、お寺の保存についても、何らかの役に立てるのではないかと思いました。急速な技術進歩、グローバリゼーションの進展とともに、お寺は観光スポットに成り下がっています。お寺は観光スポットより、もっと重要な存在なのです。お寺は、日本の精神および歴史を代表するものであることは、心に留め置かれるべきであり、記憶されるべきなのです。お寺というものは、全ての人に息づいている地域社会、歴史、文化の断面なのです。これが、カメラを持ち歩き、できるだけたくさんのお寺の写真を撮りたい理由です。私はお寺にある、非常に多くの意味を肌で感じ、何世紀にもわたる建物としてのお寺に感心しながら、心休まる自分を見出すのです。もし、私が、お寺という文化的遺産をみて、日本の皆さんから、何を思いますかと尋ねられることがあれば、私は、まず、皆さんはお寺の近くにいて、歴史とアイデンティティという、生きた証拠に囲まれているのは、幸せなことだと言うでしょう。二番目は、皆さんは、もっとお寺を気にかけるべきですと言うでしょう。なぜならば、お寺は、あるとき、また永遠に人々の擁護者であり、人々を守り続けているからです。そして、最後に、言いたいのは、もし、人々がお寺を忘れるようなことがあれば、お寺の意義は消えてなくなります。地域社会の権化であるお寺を守らなければならないのです。

 

外国に生まれたものがこんなことを言うのは奇妙であり、そんな人間はほとんどいないと皆さんはおっしゃるでしょう。しかし、私の場合は、そうではないのです。私たちは、暮らしの中で、感情を抱くものですが、私にとって、日本のお寺との関係は、私が生まれる前からあるのではないかとさえ思えるのです。私がお寺の中で感じる奇妙な懐かしさと自由を説明しようとするならば、次のようなことになるでしょう。「私は、長い旅路の果てに、故郷へ戻ってきた」というような感じなのです。皆さんの故郷であるお寺を大切にしてほしいと願うのです。

Carmel Anne “Mits” Abela(カーメル アン”ミツ” アベラ)